【CHAPTER.1】 海外にルーツを持つ子どもたちのいる学校
【CHAPTER.2】 海外にルーツを持つ子どもたちにとってどんな教育が必要なのか
【CHAPTER.3】 「ちがうこと」を認めあえる多文化共生社会に向けて
CHAPTER.2 海外にルーツを持つ子どもたちにとってどんな教育が必要なのか
海外にルーツを持つ子ども=「課題を抱えた存在」ではない
海外にルーツを持つの子どもたちの目に見える課題が多いというのは確かにあって、言葉の問題や、アイデンティティの葛藤、また、課題が解決されていないことにより進学や就職などのキャリア、もっと大きくなると社会構造として格差が生まれていく問題がある、それは事実だと思います。ただ、海外にルーツがある子どもというワードを出した時にイコール課題があるという目線でしか捉えられない私たち自体が課題でもあるんです。
例えば、昔は「帰国子女」ってすごく可能性を秘めている言葉だったと思います。いろいろな言葉が使えたり、日本以外の世界に繋がりを持っているというのはものすごくパワフルな視点ですよね。本来、子どもたちは日本語ができないこと以外は何でもできて、可能性に溢れています。
ここ最近、海外にルーツを持つの子どもたちを取り巻く状況が社会課題化されてきたことによって、みんなが問題に焦点を当ててなんとかしなきゃってなるのはいいんですが、子どもたちが日本語で苦労している姿ばかりを取り上げて、かわいそうな子どもが苦労しながらも頑張って生きていますっていうストーリーを前提にしすぎていると感じていて、もっと別のストーリーから見える視点があるんじゃないのかっていうのは思うところですね。
子どもたち自身の問題?社会のシステムの問題?
今、私たちが「マイノリティの子ども」を捉えるときにしてしまいがちなのは「課題を子どもに背負わせている」ことなのかなと。そして教育現場でもそれがわりと浸透しやすいものになっていますね。うまくいってないことの原因を子どもの言語の発達に焦点を置いてしまって、その子のできなさを中心に解決しようとしている。でもそのうまくいってないことの根本的原因はもしかしたら授業や教育、私たちの社会のあり方が作り出しているものなのかもしれないですよね。多数派が変わらなくて済むシステムの中にどうやって子どもたちをそこに入らせていくかばかり考える流れは変わっていくべきだと思います。
子どもたちに必要な教育とは
「できない子どもをできるように」っていうようなイメージの教育ばかりになっていくことを、少し別の方向に変えていきたいですね。子どもたちが本来学校で学ぶべき力っていうのは深い思考力であるとか、自分の経験の中から意味のある言葉を綴ることとか、自己実現していくための力ですよね。でも海外にルーツを持つ子どもの話になったときに、そういう話ではなくて、いかにわからない子どもをケアするかという話が中心になってしまいがちです。
なので、福祉・ケアとしての教育と、高い思考力や学力を身につける教育を分断させずに結びつけていくことが必要だと思います。つまり知的な好奇心とか知的な関心をちゃんと育んでいけるような日本語の支援がやっぱり必要だろうと。もっと言えば、その子たちにとっての表現方法は日本語だけではないわけだから、日本語でどうできるかだけではなくて、自分が持っているあらゆる言語資源をフルに使って、理解し、伝えることができるかってところが大事なんです。今は、いろいろ便利な翻訳ツールがある時代だから授業や友達との会話でそれを使って発言してもいい、あらゆる言葉とあらゆる道具を使いこなして交流し、理解し、成長し、自己表現ができるようになるという流れの中に、そうした言葉のサポートや支援の教材はある必要があります。
(注5) GIGAスクール構想:全国の小中高等学校などの教育現場で児童・生徒1人に1台のコンピューターと高速ネットワークを整備する文部科学省の取り組み。
10代のための日本語教育を考える
特に学年や年齢が上がるほどそういった自己表現に必要な言語の発達ってすごく必要だと思うんですが、今は、成人の日本語教育と子どもの日本語教育の間にあたる10代のための教育法が抜けていると感じています。10代の子どもたちに対しては教科を理解するという話に置き換えられてしまっていて、知的な関心を持ちつつ、自分たちの言葉の資源を伸ばしていくというアプローチが少ない。そこで今、新しい教材を作りたいと考えています。
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