第3回 吉村繁さん
死を眼前にしたいという思い
ベトナム戦争の最中だった学生時代、写真学科で報道と作家論を学び、人間の生死について考え悩み、「死を眼前にしたい」という思いを持っていた吉村さん。ある日、新聞で、偶然シャプラニール(当時、HBC)と出会います。そして、大学4年生(1974年)の夏、HBC初代ボランティアと一緒に、バングラデシュに渡ります。バングラデシュに行くと、そこには、それまで勝手にイメージしていた様な「死」はなかったそうです。
当時、通信員だった吉田ユリノさんや現地の協力者の人たちと連日、海外協力などについて話をします。「悲惨さを訴えるのではなく、バングラデシュの普段の生活を伝えなければならない」という思いを胸に帰国します。しかし、「日本のメディアが取り上げるのは洪水や食糧援助の様子ばかりだった」と吉村さんは振り返ります。その後、「バングラデシュで生活をしながら、じっくりと普段の生活を撮りたい」という思いを強く持ち続け、30歳で写真の会社を辞めてバングラデシュに渡り、3年間滞在します。
側(傍ら)にいること
吉村さんの手にある写真は、バングラデシュの農村での臨終の場面です。「私は、写真家として側(傍ら)に居る。私の役割は、異なる文化を伝えるパイプ役。マスメディアが伝えない、私が見た普段のバングラデシュを伝えたい。ベンガルの風、水、光、人の話し声、そして、その土地が持つ独自性と普遍性」吉村さんの作品から、バングラデシュの日常を感じることができるのではないでしょうか。
「海外協力の半分は対象国で、もう半分は自国で」
「海外協力活動の仕事の半分は対象国、あとの半分は自国」というのが吉村さんの持論です。「バングラデシュの人たちも近所を巻き込みながら、自分の生活を良くていこうと活動している。同じように、日本の私たちも住んでいるところで、社会を良くしないといけない。バングラデシュのヒ素中毒と水俣(熊本)と阿賀野川(新潟)と土呂久(宮崎)というように、地域と地域、人と人が協力することが『共に生きる』ということではないでしょうか。ひとりひとりの波が共鳴し合って生み出される美しい波動、私はそれを『シャプラ』(白蓮=浄土)と呼んでいます」と言います。吉村さんの姿勢と言葉の中に、共生を形にするヒントがあるのではないでしょうか。
よしむら・しげる
フリーの写真家。1974年にバングラデシュを訪問して以来、シャプラニールに関わっている。著書に「水と大地の詩バングラデシュ」(共著、1995年、岩波書店)「チャチャの海」(2001年、クレオ)がある。写真は、吉村さんのご自宅の縁側で。