僕がネパールに滞在していたのは、2004年11月から翌年の2月頭まで。いわゆる国王クーデターの後で、政情不安が続いていた。
街なかには普段から、銃を持って立つ警察官や軍人を所どころで見かける。でもそんな迷彩服の男たちが、喫茶屋台で一般人にまぎれてチャヤ(ネパールのミルク紅茶)をすすり、笑って会話している様子は、僕にはかえってインパクトが大きかった。
バンダ(ストライキ)が呼びかけられることもたびたびで、そうすると商店が閉まり、道路を走る車もなくなる。歩行者天国には、子どもたちはもちろんのこと、壮年の人たちも繰り出して、フラフープに明け暮れたり、バトミントンではしゃいだりしている。ああ、この人たちは、本当に平和なんだなぁ。政情不安なんて、一面に過ぎないじゃないか。この人たちのように、暮らしぶりの深いところで、根っこに平和があるだろうか。例えば、自分の暮らす東京の街で、こんな風に場所と人との関係がリセットされたとき、楽しげな面持ちで路上を過ごせるだろうか。何としてでも会社に行く手だてを考えたり、次の情報がいつ得られるかとイライラしたりしてしまうのではなかろうか。バンダのたびに、心は和まされていた。
この滞在中は、僕はシャプラニールのインターン生として、当時『働く子ども関連プロジェクト』と呼ばれた業務に携わることになっていた。まだ活動がスタートする前の、ローカルNGOとの打ち合わせも多い時期、国際NGOとのあいだで計画が育っていく様子は刺激的で、その場に立ち会えたことは幸運だった。
けれども、やはり業務の中だけでは見えないものもあるだろう、という想いもあり、通勤は朝は業務開始よりもだいぶ早く出発し、終わってからも時間帯によっては、遠回りをして街なかをよく歩いていた。勤務のない日には、一日中歩き回った。歩いては、よくスケッチをとった。
道に迷って出くわしたスラムの外からスケッチをとっていたら、住民に誘われて自宅に案内され、チャヤとビスケットが出てきて、いろいろ話した。2回目の訪問のときには、隣の友人宅でチャウチャウ(ネパール風スパイシー焼きそば)やチャン(チベット系の家庭で作られる醸造酒)をご馳走になった。最初は訝しげだった老女も、その家の少女の似顔絵を描いて見せると態度が変わって、帰り際には「泊まっていけ」と呼び止められた。
少し広くなった場所でスケッチととっていたら、寒空に突っ立っているのが気の毒だったのか、近くの商店の人が「これに座って描きなさい」と、椅子が出てきた。目線が、変わってしまうなぁ・・・。描き終るころには、後ろには十数人の見物人がたむろしていて、ちょっと面白い景色が出来上がっていたと思う。
登校の時刻と重なるのか、毎日のようにのぞき込む女の子と顔見知りとなって、挨拶を交わすようにもなった。川端の、あれもスラムのひとつだろうか、あたりの様子を描いていたら、いつの間にか取り囲まれるように群がりが出来上がり、最後に出てきた老夫を絵に描き込むと、歓声が沸き上がったこともあったっけ。
それから10年余り、ネパール大地震のニュースは衝撃だった。スケッチをとったドゥルバール広場の建物も、崩れ果ててしまった映像が流れた。被災の悲劇に胸を締め付けられる。けれども衝撃と言ったのは、思い出が壊れた、という類のものではない。起きると言われている地震は本当に起きるんだ、という現実に対する狼狽えだったのかもしれない。僕が滞在していたとき、もうすぐネパールで大きな地震が起きる、とはすでに言われていた。その記憶が呼び起こされた。
僕たちがいま住んでいるのは、愛媛県の海岸端の小さな海村。発生可能性が指摘されて久しい南海トラフ地震の影響は、免れ得ない。伊方原発から30km圏内にあり、余震の頻発する熊本地震は、この原発のすぐ近くを走る中央構造線という大断層を延長した付近で起きている。
僕たちは、確かに地球の上に立っているだろうか。この地域の暮らしから、未来に残せるものがあるとすれば、いったい何であろうか。ネパールを知り、現実を応援すること、これは僕たちの未来への手助けにほかならない。ネパールの惨劇のみならず、国際協力の現場から、お互いが共有すべき学びは少なくないはずだ。
<プロフィール> うえはら ゆうき
早稲田大学理工学研究科修士課程を修了し、翌年に同博士後期課程退学してインターン。農事組合法人無茶々園勤務を経て2007年より約2年間、連れ合いの仕事に伴って移住したインド・コルカタで専業主夫。帰国後、農業研修を経て2011年に就農。家事、育児、市民活動、暮らしの全般に主体的に携わりつつ、柑橘・梅・アボカドといった果樹の有機栽培を実践中。
<シャプラニールとの関わり>
2004年度シャプラニール海外活動グループのインターンに従事
インターン期間中3か月間をネパールで、一週間をバングラデシュで過ごす。
この記事の情報は2016年10月1日時点です。