2月25日から26日にかけて起こった国境警備隊(Bangladesh Rifles=以下BDR)での銃撃事件は、結局3月上旬までの発表で74人(うち軍の将校55人)の死者が出る大事件となり(注1)、BDR本部のある場所の地名「ピルカナ(Pilkhana)」から、「ピルカナの悲劇」「ピルカナの虐殺」などと呼ばれることが多くなってきました。

日本でのわずかな報道では何が起こったのかよくわからなかったと思いますが、バングラデシュにおいてはこれは国民の心に大きな傷を残す歴史的な大事件であったといえます。真相の究明に向けて調査団が組織され、近いうちに調査報告が発表されることになっていますが、どうにもこの事件は不可解なことだらけで、今もバングラデシュの多くの人々の胸には、「なぜ、こんなことが起こってしまったのか?」「どうして防げなかったのか?」という疑問と痛みがモヤモヤとしている、という感じです。このモヤモヤは真相が明らかになるまで晴れることはないでしょう。

「BDR本部で銃撃事件」と聞くと、何かひとつの建物の中で事件が起きたのかと思われるかもしれませんが、このBDR本部というのは周囲10キロの広大な場所なのです。この中にBDR隊員や上官である軍の将校たちの住居もあり、バラやユリの花が咲き乱れる庭園やスポーツ施設もありました。広い大学のキャンパスのようなものです。そういう場所なので、事件当時ここに閉じ込められて人質になってしまった人々は軍人だけではありませんでした。女性や子ども、お年寄りを含む軍人やBDR隊員の家族たちも、事件の最中は家から出られず銃声を聞きながら恐怖に震えていたのです。

事件発生当時、ピルカナのBDR敷地内には数千人の人々がいたといいます。しかもピルカナの周囲は密集した住宅街で、北は古くからの高級住宅街のダンモンディに、南はダッカ最大の公務員住宅地アジムプールや常に大勢の人で賑わう商店街のニューマーケットに接しています。バングラデシュの最高学府、ダッカ大学のキャンパスも目と鼻の先です。そんな首都の重要な場所で一昼夜銃声が響き続け、鎮圧のために戦車が住宅地を走り抜け、周囲3キロの住民に避難勧告が出され、あわや市街戦か、という危機一髪のところだったのです。

その最悪の事態をなんとか回避してやれやれと思ったら、ピルカナの敷地の中からBDRのトップ含め数十名の軍の将校たちの無残な遺体が次々と発見されました。30名以上が投げ込まれて埋められた穴や、下水溝に捨てられ川に流れ出た遺体、めちゃめちゃに荒らされて略奪され、血痕が残る軍の将校の住居など、鎮圧後に明らかになったピルカナ内部の状況は凄惨を極め、新聞に掲載された現場写真に背筋が寒くなりました。犯行グループのほとんどは停電中の闇に紛れるなどして塀を乗り越えて逃走し、後には累々たる遺体の山と武器の山、燃やした書類などの灰の山が残されました。ダッカ住民のショックを想像してみてください。

事件が起きた25日の前日、24日はBDR本部で勲章授与式があり、シェイク・ハシナ首相も出席していました。約1週間にわたる行事のために、全国のBDR拠点から軍の将校たちが集まっていました。そういった特別なときに起こった事件でした。銃殺された軍の将校たちはほとんどが25日の朝に殺されたとみられるのですが、その日、TVではBDRの隊員たちが「我々は軍の将校たちに抑圧されている。BDR隊員の待遇は悪すぎる」といったことを訴えていました。その段階では、これほどの数の軍人が既に殺されているとはほとんどの人は思わず、“捨て身で待遇改善を訴えに出た”BDR隊員に同情する人が多かったのです。しかし、事件後の惨状を見て、いまや誰もこの事件が「待遇への不満が爆発」などというレベルのことだったとは思えなくなっています。犯行の主目的は別にあり、「待遇への不満の訴え」は人々の目をくらますための煙幕だったのだろう、と言われています。犯行に関わった“中心メンバーでない”BDR隊員たちも、この煙幕に惑わされ、踊らされてしまったのではないか、とも考えられます。

調査が進むにつれ、BDR隊員の通話記録などから、今回の事件は少なくとも2ヶ月以上前から計画され、BDR内の相当数の人がなんらかの陰謀が進んでいることを知っていたはずだ、といわれています。辛くも虐殺を逃れて生き残った軍の将校は、虐殺の中心メンバーは約20名で、赤や紫などの布で覆面をしていたこと、この覆面グループと顔を出していた(しかし中心メンバーの指図に従って動いていた)BDR隊員メンバーとは明らかに態度が異なっていたことを語っています。BDR隊員の数は非常に多いため、制服は着ていたものの、この覆面メンバーが本当にBDR隊員だったかどうか、居合わせたBDR隊員らもわからなかった、という話もあります。そのため外部の人間だったのではないか、という憶測が飛んでいるのです。イスラム過激派によるものだ、という説、インドの陰謀だ、という説などが流布していますが、真相はわかりません。BDR内にも諜報部門があるのに、なぜこの計画についての情報が事前にキャッチできなかったのか?なぜ上に伝わらなかったのか?ということも今問われています。いずれにしても、現政権を揺さぶるための強烈な嫌がらせである、ということは間違いないように思われます。

覆面メンバーを含め、事件当時の犯行グループメンバーはかなりTVにも映され、写真も撮られています。揃いの布で覆面や鉢巻をしたメンバーたちは確かに眼つきが異様な感じで、顔を出している他の隊員たちとは印象が違います。

他にも様々な「謎」や「手がかり」が報道されています。以下のようなものです。(真偽のほどは保証できませんが広く報道されているものです)

・事件の最中、軍関係のものでもBDR関係のものでもない所属不明の車がピルカナを出入りしていた。

・ピルカナに残された武器の中には、BDRも軍も使用していないものがあった。

・バングラデシュのTVニュースではBDRトップのDirector General(DG)が殺されたことは事件が決着するまで報道されなかったのに、インドのNDTVでは事件が起こった25日の午前中にDGを始めとする主な将校たちが殺されたことが報道されていた。

・犯行の中心メンバーが、事件の最中、「グルザールはどこだ?!」と叫んでいた。グルザール・ウッディン・アフマッド大佐は今も遺体がみつからない5人の将校の1人であり、彼は2年間Rab(警察の特殊部隊)にいた時代、イスラム過激派であるジャマトゥル・ムジャヒディン・バングラデシュ(JMB)(注2)の首領らの逮捕に中心的役割を果たした。

事件から10日たち、事件当時の政府の対応などをめぐって与野党の非難合戦が始まっています。そんなことをしている場合じゃないだろ!と思いますが、いつもこうなってしまうのが悲しいかなバングラデシュの現実。過去からの因縁は脇におき、与野党が協力して一刻も早く真相を明らかにしてほしいと思うのですが。

ダッカで暮らし、バングラデシュの人々と共に働く私も、事件の真相がわかるまではどうにも気持ちが落ち着きません。事件が起こる前には週末よく買い物に行ったライフル・スクエア(注3)にも当分足が向きそうにありません。

注1:一時は約150名が死亡か、と報道されたのですが、後に訂正されました。情報が混乱しており、その場に軍のオフィサーが何人いたのかすらもなかなか判明しなかったようです。

注2:2005年8月に起きた全国同時爆弾テロの犯行声明を出すなど、バングラデシュ内でももっとも危険と目されていたイスラム過激派グループ。首領アブドゥル・ラーマン、No.2のバングラ・バイら幹部6名は2006年3月に逮捕され、約1年後に死刑に処せられている。

注3:BDR本部のダンモンディ側の門のすぐそばにあるショッピング・モール。スーパー「アゴラ」の1号店、DVD屋やブティック、ファーストフード店などが入り、ダンモンディのショッピング・モールの代表的存在だった。今回の事件中、一時犯行グループに占拠された。

ライフルズ・スクエア.jpg

写真:ライフルズ・スクエア。このモールの前の通りで、BDR敷地内から撃たれた流れ弾に当たった学生やリキシャ引きの男性などが死傷した。この写真は2005年に撮影したもの。