バングラデシュが独立して50年、シャプラニールの活動も49年目に入る。
苦悩し発展し、今なお課題がある私たちだ。
1973年12月、私はひとり入国した。実質的な独立直後のことで、戦争の傷跡が生々しかった。首都ダッカの中心部にもスラムが広がり、町に女性の姿はまったく無く、異様な雰囲気だった。日常的な停電、度々発令される外出禁止令、頻発する強盗事件など、治安は不安定だった。
1974年、「ヘルプ・バングラデシュ・コミティ」* 初めての活動をポイラ村で開始した。(右下白い服の女性)
半封建的な身分制社会が残っていて、村民の大多数は土地なしか零細な農民で日雇いの農業労働者だった。貧困の悪循環の中にいた。貧しい人々のうちでさらに抑圧されているのは女性と子どもだった。欧米のNGOは対症療法的なプロジェクトを実施していたが、現象ではなく本質にアプローチすべきと考えた。「女性のためのジュート手工芸協同組合」のプロジェクトを立ち上げた。この分野では同国で最も早い活動だったと、後で聞いた。同年日本で、当時フェアトレードという言葉は生まれていなかったが、同じ理念の活動を始めた。日本のフェアトレードのはじまりと位置づけられている。
当時、女性の表情は固く暗い印象があった。90年代ごろからか、女性が写る写真からは明るく、自信に溢れる姿が見られるようになった。各地でNGOがかかわり、ジュート製品やノクシカタなど、暮らしの中にあった手工芸品を作り、輸出したり、内需を掘り起こしたりと、経済活動の一端を担った。そのことにより、外貨を稼いで国に貢献し、何より彼女たちは経済的自立をした。家族、社会の中で女性の地位向上に繋がったと思う。
私がバングラデシュで、また日本で戴いた多くの方々のご支援に、深い感謝の念を抱いている。私のシャプラニールの活動はセレンディピティの連続で形づくられている。平たく言えば、人との出会いにより進むべき道が示され、なすべきことの端緒が開かれていった。
シャプラニールの草創期、バングラデシュで根を降ろすことができたのは、バングラデシュの友人、シスター方、欧米NGOのスタッフなど多くの人に助けられたお陰である。特にサイドゥール・ラーマン氏、アタウル・ラーマン氏やヌールル・イスラム氏(のちのシャプラニールのアドバイザリーコミティ)との出会いは大きい。彼らの知見とアドバイス無しにはシャプラニールの今は語れないだろう。
アタウルが率いる現地NGOのGUP(ゴノ・ウンナヤン・プロチェスタ:ベンガル語で「人々の発展への努力」)の人々の交流は忘れられない。ポイラ村での活動は壁の連続だった。助言を求めて、ダッカ北西部のGUP本部のある村を訪れた。ロンチ(川船)と徒歩で一日がかり、夕方に着いた。夕食後、事務所のテラスで、スタッフたちはタブラ**やハルモニオン***を奏でながらタゴールソング****を、私は日本の童謡を、歌い交わした。ロジョニゴンダ(芳香をもつ白い花)が香り、バングラデシュの風土と文化に触れた、美しい夜だった。
吉田ユリノ 氏 シャプラニール草創期のメンバー
大学で社会福祉を学び、ソーシャルワーカーとして病院に勤務し、1973年「ヘルプ・バングラデシュ・コミティ」に参加、同年12月”通信員”としてバングラデシュに入国。その後、バングラデシュで初の駐在の任にあたり、ダッカ事務所開設、現地プロジェクト開始など2年弱活動に従事。1983年からは当時ダッカ事務所長の夫と共に家族で3年余滞在。その後、東京事務所事務局員、地域連絡会代表などボランティア活動をしながら、理事、評議員を経て、現在シャプラニール・シニアアドバイザー。
*「ヘルプ・バングラデシュ・コミティ」:シャプラニールの前身の名称
**タブラ:ベンガル民族の伝統的な打楽器
***ハルモニオン:鍵盤楽器
****タゴール:ラビンドラナート・タゴール(1861―1941)・詩人 、思想家、作曲家。詩集「ギタンジャリ」でノーベル文学賞を受賞。バングラデシュ国歌の作詞者でもある。