理事・評議員からのメッセージ
シャプラニールの運営にかかわる理事・評議員から、ご自身の活動や専門性の高いトピックに焦点をあててレポートいただきます。タイムリーな話題、広い視野から多角的な海外協力の今をお伝えします。
共通するニーズを事業を通して実現する
シャプラニール評議員・パルシステム生活協同組合連合会地域活動支援室 鈴江茂敏
PROFILE
すずえ・しげとし
1963年生まれ。1982年東京学芸大入学。教員免許を取得したが教壇に立つことはなく、福祉事業にかかわるが低賃金に耐えられず生活協同組合の門をたたく。
自身の仕事、活動内容
バブル終盤の1990年11月、新聞広告で発見した北多摩生協(現生活協同組合パルシステム東京)(※)の配送職員となりました。当時は景気が良く就職は売り手市場でした。肉体労働を選ぶ人は少なかったようで即採用でした。人手不足だったため「明日から来て欲しい」と言われましたが「それは無理です。来月から来ます」と答えました。
配達のトラックを運転して3年目。その年は冷夏となり日本のたんぼではお米の収穫量がガクンと減り、作況指数は平年の74%となりました。タイやアメリカからお米が輸入され、私も外国のお米を届けました。この「米騒動」を経験したパルシステムは、1995年からお米の購入を事前に予約する「予約米」制度をスタートさせました。事前に予約することで、農家さんは田植えをする時に、販売先が決まっているので安心して米作りができます。農家は予約した生協の組合員へ、収穫後のお米を優先的に届けます。安心して米を作りたい、お米を食べたいと言う農家と消費者に共通するニーズや願いを、事業を通して実現することを体験しました。日本協同組合連携機構のホームページでも「協同組合とは、共通のニーズや願いを持った人同士が自発的に集まって、事業を通してそれを実現する組織です」と説明されており、「なるほど、そういうことか」と深くうなずいたものでした。
就職後10年ほどトラックを運転しました。その後、組織運営や理事会運営、広報等を10年ぐらい担当しました。その間に世の中では食品偽装が大きな問題となりました。パルシステムでも冷凍コロッケに使用されたひき肉が、指定産地外のお肉であることがわかり、生協の組合員とともに原因調査に奔走しました。一方、1990年ごろから韓国では「日本の生協で事業を学びたい」との意向があり、積極的に韓国生協の職員研修を受け入れました。事業を学ぶだけではなく日韓双方の組合員の交流も重要だと話が進展し、2000年ごろから韓国生協との「子ども交流」も盛んになりました。私もパルシステムの担当者として2001年から韓国の子どもたち10人を2泊3日で受け入れました。
翌年は日本から子どもたちが訪韓し、以降毎年相互に訪問し交流するようになりました。韓国の子どもたちに感想文を書いてもらうと、必ず出だしの文言は「日本人は恐ろしいと思っていましたが……」で始まっていました。「思っていましたが、そうではなかった」と言う感想だったので、本当に安心しました。市民の交流、草の根の交流が大切であることに気づかされた瞬間でした。
2011年3月1日にパルシステム生活協同組合連合会に出向しました。その10日後に東日本大震災が発生し、さまざまな混乱の中でしたが、自然災害担当のような役割が増え、東北地方(宮城県石巻市、南三陸町、福島県会津若松市)に出向くようになりました。
東日本大震災では、宮城県の生協「あいコープみやぎ」の炊き出しに協力し、半年ほど職員が交代で食材とともに支援に伺いました。その間、何度も「あいコープみやぎ」の事務所で寝泊まりさせていただきました。また石巻市内で活動を開始していたピースボート災害支援センターにも炊き出しの食材を提供しました。半年で約15000食分の食材をお届けましたが、秋を迎え石巻市内でも仮設住宅への入居が始まるころ、炊き出しを終了しました。その後、福島県沿岸部の大熊町から会津若松市へ避難された方々へお買い物の支援を始めました。
いろいろ整わない中でしたが、会津若松市内のNPOにご協力いただき、なんとか買い物の商品を届け続けました。降雪量の多い会津地方なので、沿岸部から避難された方々は暮らしにくかったかもしれませんが、雪解けを迎えるころ、地元の「コープあいづ」の「移動販売バス」が仮設住宅に寄ってくださるようになり、避難された方々のお買い物を引き受けてくれました。大変ありがたかったです。感謝しつつ撤収しました。
2012年からは南三陸町で「復興住宅を建てるので手伝ってほしい」とのお話があり、さっそく出向きました。戦後地元の山に植林した針葉樹がたくさんあり、「この木を使って復興住宅を建てる」を目標としました。最終的に住宅2、食堂3、小屋等8棟が建ちましたが、2015年ごろ南三陸町での住宅需要が縮小し、現在は自伐林業者や持続可能な養殖牡蠣の漁師と海里森の循環するまちづくりを模索しています。
2016年4月、熊本で大きな地震が起きました。地元の精神的支柱である熊本城も被災しました。熊本では「生協くまもと」「グリーンコープ熊本」双方から食材の購入をお願いし、県南の宇城市では6月末まで2カ月ほど炊き出しを行いました。
発災当初、熊本市や益城町はボランティアが多すぎて「仕事がない」とのことでした。しかし少し県南に目を向けるとボランティアがいないところもあり、支援者の配置がまだら模様になっている様子でした。翌年、地元のボランティア団体の活動を支援するために生協の組合員募金を10団体にお届けできました。関東の消費者も熊本県内の小さな活動に協力できることが証明できたと思っています。
2017年の九州北部豪雨で水害が発生し、福岡県朝倉市の仮設住宅への家電製品支援に協力しました。
2018年には岡山県倉敷市で水害があり、災害ボランティアセンターの支援に出向きました。37℃を超える大変な暑さを体験しましたが、多くのボランティアも暑い中、頭に氷を乗せながら泥出しの作業を行っていました。 2019年の台風では長野県の千曲川が決壊し大水害となりました。新幹線が水没した映像がテレビで何度も写されていましたので、ご記憶の方もおられるかもしれません。パルシステムのリンゴ農家さんがたくさん被災し、この時も組合員から大きな募金が寄せられました。さらにパルシステムから、のべ300人を超える職員や子会社の方々が泥掃除に出向きました。
2020年になりコロナ禍が始まりました。COVIDー19が蔓延するなか2020年の球磨川氾濫、2021年の熱海市での土砂崩れ、2023年のトルコ・シリア地震と毎年大きな天災が起きました。2022年にはロシアによるウクライナ侵攻もあり、世界が戦争に翻弄されるようになりました。COVIDー19感染拡大防止のため、現地での被災地での活動はできませんでしたが、その都度パルシステムの組合員に募金を呼びかけ、現地に出向くことができなくても自宅から現地の方々の力になれることを提案してきました。人助けは、現地に行くことだけがすべてではありません。小さな力が集まって大きな助けとなることを確認してきた12年でした。
人生100年時代。あと30年、まだまだできることがありそうでワクワクしています。
シャプラニールとのかかわり
パルシステム東京とシャプラニールはフェアトレード商品を通じたかねてからのお付き合いがありました。私が直接お話をいただいたのは、2011年3月に起きた東日本大震災のころでした。当時、福島県いわき市で活動していたシャプラニールいわき事務所の内山智子さん(現バングラデシュ事務所長)から『「水」を届けて欲しい』との依頼がありました。当時はボトル入りの飲料水の確保にひっ迫しており、いつものお取引先からは「手配ができない」とのことで、水の手配は難航しました。そんな時、山梨の鶏卵農家さんから「湧き水ならあるよ」とのお話をいただきました。農家さんが言うには「消毒してないから飲料水としては難しいかも」とのことでしたが、いわき事務所の内山さんと相談し「生活用水」として、18ℓのポリタンク200個分の水をご家庭にお届けしました。そのころ被災地では飲料水をトイレや散水に使わざるを得ないことがあり、お届けしたご家庭から『「生活用水」が届いて大変助かる』とのお話があったと内山さんから後ほど伺いました。
シャプラニールへの期待
2023年5月に開催されたG7広島サミットでは、世界が「北大西洋条約機構(NATO)」と「旧ワルシャワ条約機構」と「グローバルサウス」の3つに分かれている様子がうかがえました。さらに核兵器廃絶には合意できず核抑止、不拡散に留まりました。大きな国の大きな政治の前に、私たちは無力であると感じた方もいたかもしれません。シャプラニールには、小さな声なき声を丁寧にすくい上げていく活動を期待しています。小さな声を数限りなく集めることが大きな世界を動かす源泉になると信じています。
会報「南の風」301号掲載(2023年9月発行)