この人に聞きたい
シャプラニールの活動にさまざまな形でつながりのある方、
国際協力、社会貢献などの分野で活躍されている方に、その思いを伺っています。
人間性の高い、将来のリーダーを育てたい
ツアー会社経営者/ガイド/通訳 ・モハマド・シャへ・アロムさん
シャプラニールのスタディツアーでは、いつも通訳だけでなく、バングラデシュの豊かな歴史や文化を伝えてくれているアロムさん。 アロムさんとシャプラニールの関係は、30年にも及びます。バングラデシュが独立 50周年を迎えるにあたり、 日本とバングラデシュの2つの社会を知るアロムさんにとって、今のバングラデシュ、そしてこれからのバングラデシュをどのよう見ているのかているのか 、お話を聴きました。
インタビュー・執筆 /バングラデシュ事務所長 内山智子
アロムさんと日本とのかかわりについてえてください。
1987年、バングラデシュで学生運動が盛んな時期で、運動に巻き込まれたこと、家族が裕福ではなかったこともあり、出稼ぎで日本に行きました。最初は電線のリサイクル工場で働きました。その後、解体工事会社の人と知り合いになり、その会社で働かせてもらうことになりました。その会社は家族経営の小さな会社で、体力的にはきつい仕事でしたが、精神はとても健康的でした。この会社で働くまでは、嫌な扱いを受けたとしても我慢するしかなかったのですが、ここでは家族の一員として扱ってくれ、時に厳しく叱ってくれることもある、心の広い人たちでした、この家族が私にとって一番の財産です。
一旦バングラデシュに帰ることになりましたが、平和な環境で学ぶ学生たちの雰囲気を見て、ぜひ日本で勉強したいと思いました。1年後に語学専門学校に入学することができ、日本に戻りました。その後、大学に入学し、2年の時は奨学金をもらうことができました。この学生生活の間、週末と夏休みなどの長期休暇期間は社長宅に泊まり、アルバイトをさせてもらいました。給料は、学費と生活費等を払った残りはすべて、バングラデシュの実家に送っていました。
アロムさんにとって、日本の魅力とはどのようなところですか?
日本人は、約束を守る、法律を守る、時間を守る。正直、相手を支配しない、相手を傷つけない。一生懸命やると認めてくれる、弱い人の足元を見ることが少ない。それらは、バングラデシュにも昔はあったけれど植民地時代に奪われてしまった、と感じていたものでした
アロムさんとシャプラニールとの出会いについて教えてください。
シャプラニールに初めて出会ったのは1991年。専門学校の文化祭にシャプラニールがジュート製品を売りに来ていました。日本に来て初めてバングラデシュ製を見たので、すごく嬉しくてスタッフには声をかけたのがきっかけです。後日、事務所を訪問すると、ベンガル語ができる人が何人かいただけではなく、バングラデシュのために活動している人がいる、ということを知りとても嬉しかったです。
それまでは、私はバングラデシュ人ですと言うと、多くの人は国の存在すら知らなかった。聞いたことがあるという人でも、洪水の国、手で食事をする箸もスプーンもない国、という負のイメージばかり持たれていました。そんな中、シャプラニールの活動を知り、感謝の気持ちでいっぱいでした。次第に、自分ができることは何かと考え、ベンガル語を教えたい、とスタッフに伝えました。スタッフは、早稲田奉仕園に話をしてくれて、ベンガル語講座を開始することになったのです。今までの日本での生活は、語学学校の外国人の友人しかおらず、建設現場で厳しく扱われる労働者としてだけの存在でした。そのような自分に、日本人の友達ができ、さらには先生になれた、この経験が人生観を大きく変えました。
10年ほど日本で暮らし、その後バングラデシュに戻られました。どのような想いがあったのか、どのようなことをやってきたのか、教えてください。
1997年に日本の大学を卒業し、日本で就職活動をしました。しかしこの時、日本に残るか、バングラデシュに帰るかでとても悩んでいました。なぜなら、家族を大事にしたいと思ったことと、今のバングラデシュにはビジネスチャンスがあり、成功すれば家族全体の状況が良くなる可能性があると感じていたからです。悩んだ結果、バングラデシュに戻っても日本とつながりを続けられるパッケージツアーを思いつきました。その会社名は、日本とバングラデシュを合わせたJapan+bangladeshでJABAツアーです。
最初は、年に2、3回しか仕事がありませんでした。シャプラニールのスタディツアー以外に日本の友人からの紹介などでも来てくれていましたが、生活できるほどの収入にはなりませんでした。そのため、他の収入を確保するためにさまざまな事業を興しました。出稼ぎで稼いだお金で少しずつ村の土地を買っていたため、どうにかなるだろうと不安は少なかったのですが、いつでも日本にいける立場を築きたいと考えツアー会社は続けました。2005年くらいになってやっとJABAツアーの経営を中心とした生活ができるようになりました。
シャプラニールのスタディツアーで通訳をするアロムさん
現在、私立学校を運営されています。どのような想いから学校運営をしようと思ったのですか?
1971年のバングラデシュ独立戦争の時、私は5-6歳でした。当時父は、サトウキビ糖の卸売りをしていたのですが、戦争によりビジネスは失敗してしまいました。日々お米を買うのが精一杯で、私は、家族を支えるためにいろいろな仕事をしました。そのため、学校の勉強についていけず成績は悪く、先生に怒られてばかりでした。当時、自分のまわりには、学校に行けない子もたくさんいた、そんな時代です。
そのような勉強の出来が悪くいつも怒られていた私が、日本の大学に通い、奨学金をもらえるようになるなんて信じられないほど嬉しかったです。この奨学金は神様からの贈り物だと思い、このお金で学校をつくり貧しい家の子どもたちが通える学校を作りたいと考えるようになりました。1995年に村で私立学校を開始しました。学校の名前は、日本でお世話になった家族の名前を入れ、「Sizue Kindergarten」と名づけました(kindergartenとはバングラデシュでは私立学校のこと)。
開校25周年を迎えたSizue学校
昨年、25周年を迎え、小学校に加えてハイスクール(日本で言う中学校)も併設しています。1クラス25人の少人数制の質の高い教育を提供し、生徒たちの成績は、県・群でトップの成績を納めています。この学校で、大切にしていることは、「人間性を育てること」です。責任を持った人間、人にやさしく弱い立場の人に対して心配りができる大人になってほしい、と考えています。先生たちにも、思いやりを持った将来のリーダーを育てる役割があなたたちにはある、ということを常に話しています。
先生たちに話をするアロムさん
バングラデシュは2021年、独立50周年を迎えました。この50年はどのような50年だったと思いますか?
前向きに進んできた50年だったと思います。女性の立場、子どもの健康、教育の機会、村人の生活レベル、などがあがりました。今では、1日仕事をすれば8、10キロのお米が買えます。そのため食べられないという人はほとんどいなくなりました。
この国は開発されましたが、大きな格差が生まれました。正直な再分配システムが働けばこのような差が生まれることはなく、すべての人たちの生活レベルがもっと上がったはずです。またこの国は義務教育等制度を整え、人々は賢くなりました。しかし、教育は勉強のできる人を生み出しただけではなく、ズル賢い面も育ててしまいました。教育(学校)の量は増えましたが、質は下がっている、と感じています。環境も悪くなりつつあります。農業ではテクノロジーにより、市場競争に勝てるような品種や量は増えましたが、健康的で質の良い食料を得ることがとても難しくなってきました。
これからのバングラデシュにどんなことを期待していますか?
人々の考え方を作るのは教育です。学校教育だけでなく、マスメディアや社会からも多くの影響を受け、人は成長します。ですから、社会全体で責任を持った人々をつくるための質の高い教育が、将来のバングラデシュのためにはとても重要です。近年、子供たちは良い悪いの判断ができない年齢のうちから、多くの情報を浴びてしまっています。そのため、自分自身(感情や行動)をコントロールできなくなっていくことを心配しています。精神面の弱さにより、あやふやなものはどんどんつぶされてしまう。教育の中に、基本的な「質」を取り戻さなければならない、そう感じています。
会報「南の風」292号掲載(2021年6月発行)
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Profile
1987年から1997年の10年間日本で暮らし、日本の大学を卒業。バングラデシュに帰国後、ツアー会社JABATourを設立し、同時にさまざまな事業を展開している。JABA Tourのマネージングディレクターとして、経営のみならず、自身も経験豊富なツアーガイド兼通訳として活躍するほか、日本のテレビ局の現地コーディネネーションや企業の通訳なども行っている。シャプラニールとは1991年からかかわりがあり、今までも多くのスタディツアーの受け入れを行ってきた。1995年からは実家の村で私立学校を運営している。