リレーエッセイ「ネパールという国」

ネパールに5年間いた、と言っても、そのほとんどはカトマンズ。しかも、ボーダナート近辺で暮らすという時間がほとんどだったわけで、私が語ることのできるのは、わが家から事務所までの道筋にまつわる乏しい経験だけだ。

有名な観光地「ボーダナート」

有名な観光地「ボーダナート」

5年間ついに舗装されることのなかったわが家の前の道を、雨季には濁流となって流れる下水をよけながら歩く。乾季には、川底のようになってホコリが舞う同じ道を、回収されないで溜まりに溜まったゴミをよけながら歩く。その繰り返しだった。ウンザリとは、このことだ。

うーむ。書いていて、よくこんなところに住んでいたなと思えてきた。慣れとは恐ろしいもので、住んでいた頃は「こんなものか」という気持ちで淡々と過ごしていた。だが、今またカトマンズに住めと言われたら絶対に拒否するな。
本来、自分は皺とシミが目立つはげた爺さんというやや不本意な境遇に軽い絶望を覚えつつ、アドリア海が見渡せる美しいイタリアの村で、よく冷えたワイングラスを片手にモンテクリストのナンバー1(葉巻です)をくゆらせるというのが、私のあるべき姿だ、と思っているのだが、現実は、常に私をしてこのような場所に住まわせる。

ところで、ここまで書いていて気付いたのは、あの2015年4月25日の大地震の前と後では、私の知る限りのカトマンズでは、生活のレベルで大した違いはないということだ。そりゃ、地震のすぐ後はわが一家も屋外で寝たりしたものだが、基本的なインフラということに関しては、特に生活のレベルが落ちたり困ったりということはなかった。というより、普通に考えれば、もともとデフォルトで「困った」生活をしていたわけだ。

14680505_697409183760704_429470552502927428_nゴミだらけのカトマンズがなぜゴミだらけなのか?私が彼の地に住み始めた頃の統計では、1日300トンあまり出るゴミの1割が処理しきれずに放置されているとあった。要するに、路上で、あるいは川の土手で溜まっていくのだ。それから4年近く経ったある日、カトマンズ市の偉いさんに市役所で話を聞いたときは、1日500トンのゴミが出て、そのうち1割が処理しきれずに放置されているとのことだった。なんのことはない、ゴミ全体の量が増えた分、放置されるゴミも増えているということだ。

ここで、私は気がついた。一つは、路上に放置されるゴミは、カトマンズ市がお金持ちだったらあっと言う間に解決するだろうということだ。焼却施設を作り、ゴミの回収車を十分用意し、必要な人員を雇いということに(どこかの国のように)税金をつぎ込めばいいだけの話だ。私たちが、わざわざ出かけていって、したり顔で環境教育をする必要はない。
もう一つは、私は日本でもカトマンズでも同じように暮らしてゴミを出していたということだ。だって、買うモノ買うモノすべてがパッケージされていて(ほら、飴だって一つずつ包装されてるでしょ)、大げさではなく、何かを買うということはそのほとんどがゴミであるモノを買うということでしょう。
血の巡りの悪い私に、ここまで気付かせてくれたカトマンズ、ありがとう。

<プロフィール> 和田信明wada-profile-photo(わだ・のぶあき)
1950年東京生まれ。ストラスブール大学人文学部社会学科中退。1993年に認定NPO法人ムラのミライの前身のNGOを設立、以来2015年まで事務局長、専務理事、代表理事を歴任。2015年に代表理事を退任。
1993年以来、主に南インド、ネパールで多くのプロジェクトを手がける。同時にJICA、JBICの専門家としてインドネシア、ガーナ、インドで多くの調査、研修を行う。その間、中田豊一(前シャプラニール代表理事)とともにメタファシリテーションを手法として築き上げ、その普及に努める。最近は、セネガル、イランからも要請されて研修などの活動を広げている。
著書に、「途上国の人々との話し方ー国際協力メタファシリテーションの手法」(中田豊一との共著:みずのわ出版 2010年)、「ムラの未来・ヒトの未来ー化石燃料文明の彼方へ」(中田豊一との共著:竹林館 2016年)、訳書に、「白い平和」(ロベール・ジョラン著 現代企画室 1985年)

この記事の情報は2016年11月2日時点です。