リレーエッセイ「ネパールという国」

私にとっての心象風景としてのネパール。それはヒマラヤでも首都カトマンズの歴史的な街並みでもなく、インドとの国境沿いに広がるタライ平野である。最初からそのように計画したわけでもないのだが、シャプラニールの駐在員として過ごした5年間、そしてセーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの駐在員として再びネパールで生活した6年間、どちらも主な活動地はタライにあった。
最初の5年間は西タライに暮らすタル―と呼ばれる先住民族の人たち、次の6年間はタライに住んでいるマデシと呼ばれる人々への支援活動だった。

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開発においても予算が優先的に配分されたのは中間山地であり、平野部は森林伐採や土地収奪など搾取の対象とはなっても、リソースの投下先としては常に後回しにされた。その過程で先住民族タル―は中間山地から移住してきた人々に森を追われ、土地を奪われた。
一方マデシの多くはその風貌や母語の特徴から「インド系」とみなされ、ネパール人としての市民権すら容易に取得できない期間が長く続くなど、様々な差別を受けた。

そんな彼らが一躍存在感を示したのが、ネパールが王制から共和制に変わり新たな憲法が定松さんと小荒井さん制定されるまでの過程においてであった。タル―は新政府に対しかつて自分たちが奪われた土地を返すように求め、マデシは東西タライ一帯をまとめて一つの新たな州として独立させることを求めた。そして自分たちの要求を通すべく、ネパール物資輸送の大動脈である東西ハイウェイを長期間にわた
って閉鎖し、生活物資の大半をインドからの輸入に頼っている首都の人々の生活に打撃を与えることで、中央政府に圧力をかけ続けた。そうした作戦が一定の効果を上げたのか、「ネパール連邦民主共和国」の初代大統領にはマデシ出身者が就任した。

だが、それでタライの人々の生活が抜本的に改善されたかと言えば、残念ながらそうは言えない。ネパールという国が「山の民」だけでなく「平野の民」をも含む多様な人々が平等かつ平和に共存する国へと発展していくためには、まだまだ長い道のりがありそうである。

10<プロフィール>
定松 栄一(さだまつ・えいいち)
特定非営利活動法人国際協力NGOセンター(JANIC)事務局長、シャプラニール評議員。大学卒業後、日赤、シャプラニール、セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンという三つのNGOに勤務。NGO活動歴30年、ネパールに通算11年駐在。2015年3月より現職。

この記事の情報は2016年12月17日時点です。