【CHAPTER.1】 海外にルーツを持つ子どもたちのいる学校
【CHAPTER.2】 海外にルーツを持つ子どもたちにとってどんな教育が必要なのか
【CHAPTER.3】 「ちがうこと」を認めあえる多文化共生社会に向けて
CHAPTER.3 「ちがうこと」を認めあえる多文化共生社会に向けて
多文化共生社会実現のために必要な意識
私たち市民が多文化共生社会実現を目指し何か行動を起こすときに、どのような意識や姿勢であたろうとするかが大事なのかなと思います。海外にルーツを持つ方々を自分たちの地域のコミュニティーの正式なメンバーの一員としてしっかり認められているかによって、サポートする上での立場や目線が違ってくる。例えば日本語を教えるボランティアをするにしても「できる私ができないあなたに教えてあげます」という姿勢でいるのは違いますよね。先ほども言いましたが、海外にルーツを持つ子どもたちに対して、課題を持っている子ども、できない子どもという目線を持ち続けていては、社会は変わっていかないと思います。
日本社会の中でも多くの人が「移動」を経験してきた
国から国でも、街から街でも、大きくいうと同じ「移動」なんですよね。多くの日本人もこの「移動」というのは経験してきている。日本社会の歴史の中でも地方からたくさんの人が東京に出てきたりといったことがありました。例えばその時に、東京に出てきて、地方出身だとバレたくないとか、方言を話すのが恥ずかしいとか、そんな気持ちになった人も少なくないと思います。それらの視点から海外にルーツを持つ人々の気持ちや状況を理解することだってできる。日本社会が経験してきたことは、これからの共生社会を作る上でのヒントにもなると思います。
留学生が漫才に挑戦!?日本社会で育ってないからこそ生み出せるもの
3年前からうちの大学で吉本興業所属の国際漫才夫婦フランポネさんたちと一緒に漫才で留学生に日本語を教えるという授業を行っています。
漫才には台本があるので、ネタの中にこういう会話があると笑わせることができるっていうのを意図的に仕込んでいけます。それはライティングの学びにもなるし、会話の構築を想定するっていう学びにもなります。また、日本語を話すのが恥ずかしいとか笑われてしまうかもしれないという気持ちを、逆に「笑わせる」ことに発想転換することで、自分の表現が誰かの笑顔を作るというパワーになっていくんじゃないかと、そんな想いから始まりました。
漫才の文化って、日本社会の文化から出てくるあるあるのようなものがネタになったりしますけど、この授業では日本社会を共有していない留学生の視点から日本語で人を笑わすことができるのか、ということにチャレンジしています。
「ちがうこと」は可能性であり、武器である
ひとと「ちがうこと」っていうのは自分を切り開くという意味でも社会を切り開くという意味でも武器であり大切な資源です。私たちは多数派と「ちがうこと」を問題として見るのではなく、可能性と捉えてよりよい社会をともに作って行くべきだと思います。
海外にルーツを持つ子どもたちは、いろんな可能性、いろんな資本を持っていて、きっとそれを自分でも感じている。だから子どもたちには、それをフルに使いこなせるようなあなたであってほしい、そしてできればあなたのようなルーツを持っていない人もそう思えるような世の中にしていこう、というのは伝えたいですね。
インフォメーション<南浦さん研究室のウェブサイト>
・みなみうらぼ http://minamiura-lab.com/
<more information>
南浦さんの公式Twitter https://twitter.com/minamiurya
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