リレーエッセイ「私の好きなバングラデシュ」

私の初めての海外旅行は、今から42年前の1974年、インドのコルカタからだった。コルカタ空港から市内に向かう道路の両側に、バングラデシュからの難民がまだ大勢掘立て小屋で暮らしていて、その困窮のあり様にショックを受けた。これが私のバングラデシュとの最初の出会いだった。

その四年後の78年、私はシャプラニールの活動を見るためにバングラデシュを訪問した。当時は道路を走る自動車が数えるほどしかない、寂しい町であった。ダッカ市内のコラバガンという地区にあったシャプラニールの事務所屋上から、前年に起きたダッカ日航機ハイジャック事件の舞台となった当時のダッカ空港が良く見渡せた。そしてその二年後の1980年の6月、私はシャプラニールのバングラデシュ駐在員としてダッカに赴任した。そしてバングラデシュでの私の関わりは、今も続いている。

駐在当時の筆者(右上)

駐在当時の筆者(右上)

私がこうしてバングラデシュに出会わなかったら、私の人生はどんなものだったかと考えることがある。NGOの活動家や大学教授には、たぶんなれなかった。バングラデシュで様々な貴重な体験をさせてもらい、人生の師であるバングラデシュの先輩たちに出会って薫陶を受けたからこそ、今の私がある。その意味で、バングラデシュは私の先生、恩師だ。
最初に教えてもらったことを、よく覚えている。74年のクリスマスイブの午後、寒い日だったので路上で暮らす人々に毛布を配ろう、という話になった。ダッカのバザールでは日本の古い毛布がたくさん売られていたので、私が買い求めに行くことになった。そのとき、バングラデシュ人の先輩から、「擦り切れた、あまりきれいでない毛布を買ってくること」とアドバイスされた。キョトンとしている私にその先輩は、「ホームレスの人たちが良い毛布を持っていると、地元のチンピラや警官に取り上げられるからだ」と教えてくれて得心した。開発学でいうところのエンパワーメントの逆、ディパワーメント(力をはく奪されている状態)の状況にいる貧しいたちは、自分たちのささやかな所有権さえ守れないのだ。

サンタルの村で子どもたちから歓迎を受けている筆者

サンタルの村で子どもたちから歓迎を受けている筆者

現地NGOを率いる別な先輩からは、部下を深めた多様な人たちとの付き合い方を学んだ。たいていのバングラデシュ人はおしゃべりで自己主張が強いのだが、その人は貧しい村人を含む多様な人々の話に耳を傾け、ぶつかり合う主張を見事に調整して物事をダイナミックに進めていった。そのような人に自分がなれたかは疑問だが、少なくともそういう姿勢を持つべきであることは、学ばせてもらった。
バングラデシュのサイクロン被災者に救援物資の米を配布する際、村の富裕層が貧困層を押しのけて列に並ぶことに悩んでいたら、バングラデシュ人の先輩が「米にダール豆を混ぜれば貧乏人しか食べない雑炊しかできなくなるので、富裕層は来なくなる」と助言された。開発学の教科書やマニュアルには書かれていない、現場ならではの貴重な学びだった。

このようにバングラデシュで学ばせてもらったことは、枚挙にいとまがない。そのバングラデシュで、昨年から続けて日本人がテロの標的となってしまった。恩師と急に距離ができてしまったようで、きわめて遺憾な事態だ。このために、シャプラニールを含めたバングラデシュに関わる全ての日本人の活動が低調になっている。
私たちは、決してテロリストの思う壺に嵌ってはならない。しかし具体的にシャプラニールの活動をどう継続していくのか、厳しい現実が立ちはだかっている。今の駐在員は、事務所と自宅を行き来するだけで、フィールドの現場に行くのはままならない。
繰り返すが、私もシャプラニールも、バングラデシュで育ってきた。育ての親、先生と別れることは決してできない話だ。シャプラニールがこの状況をどう突破していけるかどうかまだ不明だが、どうか注目頂きたい。

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大橋正明
早稲田大学、コーネル大学大学院卒業。
1980~1987年、シャプラニールのバングラデシュ駐在員および事務局長、
90~93年、国際赤十字及び日赤のバングラデシュ駐在員。
2001~2007年シャプラニール代表理事、
2007~2015年国際協力NGOセンター理事長。
現在、聖心女子大学教授、恵泉女学園大学名誉教授、
シャプラニール評議員、日本バングラデシュ協会副会長。

この記事の情報は2016年9月26日時点です。

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