現地で緊急救援活動を続ける宮原カトマンズ事務所長から現地ルポが届きました。
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5月8日、現地調査のため、カブレパランチョーク郡ラヤレVDC(村)とコランティブメダンダ村を訪れました。この2村は比較的交通や市場へのアクセスが容易なカトマンズ盆地3郡(カトマンズ郡、バクタプール郡、ラリトプール郡)のうちバクタプール郡ラリトプール郡に近い場所に位置する村です。
地理的には都市部に近いのですが、車が1台通れる幅の道から山の上のほうへ進んでいくと、道はだんだんと狭まり、標高2000メートルの場所に小さな集落が点在しており、外部からのアクセスが非常に悪いことがわかりました。
最初に訪れたラヤレ村の一つの集落は山地エリアにルーツを持つ、モンゴロイド系の「タマン族」と呼ばれる人々が多く住む場所で、一人の女性が地震発生当日から3日間の様子を話してくれました。
話を聞かせてくれたのはラクシュミ・タマンさん(32歳)。地震が発生した際は、自分の家の庭にいたそうです。地震が来た時は何が起こったかわからず、揺れが大きかったため、しっかりと歩くこともできず、娘さん(13歳)と息子さん(11歳)を両腕で抱きかかえるようにして、うずくまっていたそうです。1分ほどの揺れの中で自分の家の壁が崩れていくのが、視界の端に入ったそうです。「家のすぐ近くにいては、崩れる壁に巻き込まれてしまう、家屋から何とか離れなければ」と思ったけれど、立ちあがることができず、揺れが収まるまでうずくまっていました。揺れが収まって、もっと開けた場所に逃げようと思い、子ども達と少しの距離を移動したところで、すぐにまた余震が発生したため、またそこでうずくまってしまったそうです。
(話を聞かせてくれたラクシュミ・タマンさん。)
2度の大きな揺れが収まって、集落内の空き地に移動すると、周辺の家の人もそこに集まっていました。その後何度も来る余震のたびに怖い思いをしました。揺れを感じると誰かが「アアヨ!!(来た!!)」と叫ぶので、そのたびにまた最初のような大きい揺れが来るのではないか、それよりももっと大きな揺れが来て、私達家族はどうなってしまうのだろう、と考えていたと話してくれました。
その日の晩は、着の身着のままで、空き地で集落のみんなと外で過ごしました。テントも何もなかったのに、雨が降ってきてしまって、傘も持っていなかったので、雨がしのげそうな木の下や、半壊家屋の軒下にみんなで身を寄せ合って雨をやり過ごしたそうです。
その日から3日は食事を取ることができませんでした。崩れた家の中に入って、食糧を瓦礫の中から取りだすということも考えたけれど、再び地震が来たり、不用意に瓦礫の中を歩き回ることの危険を考えると、家の中に安易に立ち入りたくないという思いがあったようです。その3日間は集落の人と手持ちの食糧や、誰かの親戚が差し入れてくれた食べ物(「チウラ(干し飯)」ら「インスタントラーメン(煮込まず、砕いてベビースターのように食す)」で飢えをしのいだそうです。
私がこの集落を訪問したのは、地震から約2週間。集落の家々は未だ壊れたままでしたが、村の人々は壊れた家の中から使える建築資材(トタンなど)を使って仮設住宅を作り、衣類、布団やテレビ、コンロを瓦礫から掘り起こして、生活環境を整え始めていました。それでも、それぞれの家庭で損壊した家財は異なるので、みんなで足りないものは分け合って生活しているとのことでした。
その次に訪れたのは、コランティブメダンダ村です。この村も標高の高い場所に位置する集落です。ほぼすべての家屋が崩れていました。建物が完全に潰れたケースもあれば、壁が崩れて屋内が丸見えになっている家などがありました。
この集落の中に住むヌサ・アディカリさん(17歳)が発災時の様子について話してくれました。彼女は発災時家に一人でいて、両親は畑仕事にでかけていたそうです。彼女は家の2階部分にある自分の部屋におり、揺れを感じて、急いで窓から飛び降りたそうです。飛び降りても怪我はしなかったのが、幸いだったと話してくれました。飛び降りた時に大きな音がして、自分が飛び降りた場所と反対側の壁を見てみると家の側面の壁が崩れていたのを確認したそうです。発災の次の日まで先ほどのラヤレ村のラクシュミさんと同様にドライフードを食べて過ごしたそうです。
今は、トタンとビニールシートで作った仮設住宅に5つのベッドを並べて14人で寝起きをしているとのことです。食糧は家の中から取り出せないので、親戚が差し入れてくれた米や豆などで今はダルバート(ネパール人の最も一般的な食事)を作って食べているそうですが、ガスシリンダーとコンロが壊れてしまったために、今は簡易かまどを作ってそこで調理をしているそうです。
彼女は学生で、来週から学校が再開するという連絡が来ているけれど、壊れた家の中から教科書等が取りだせないので、いつ学校に戻れるのかわからない、と話してくれました。
(ヌサ・アディカリちゃん。帰り際に友達と一緒に集落の入り口まで送ってくれました。)
私自身も今回のネパール地震の被災者ですが、都市部と山に隔絶された地方部では物資入手に非常に大きな差があることを改めて感じました。地震で失ってしまったものは多いけれど、失ったものを悲しむばかりでなく、前を向いて生活を立て直そうとするネパールの人々に多くの笑顔があることを現地ルポの締めくくりとして、お伝えしたいと思います。
(村の女性たちは、一変した生活の中でも本当に素敵な笑顔を見せて下さいました。)